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2019年3月 3日 (日)

我が青春のクラブ雲峰よさらば!

私、高ちゃん、トっちゃん、マアちゃんの4名は2019年3月31日を以ってクラブ雲峰を卒業する事になりました。

 創立50周年記念誌にはこんな事を記しています。

私とクラブ雲峰との出会いは昭和43年(1968)22歳の春に遡ります。ある日、仕事で訪れた神戸税関で税関官吏だった井上武久氏から台湾雪山南壁遠征隊に参加しないかと声を掛けられた。その頃の私は会社の先輩達と屏風岩や北アルプス、冬の大山北壁も登っており一端のアルピニストを気取っていました。顔は雪焼けで真っ黒、こいつは山屋だと井上さんは見抜いたのだろう。条件はクラブ雲峰に入会するでした。

「クラブ雲峰と言うてな、今は無名なんやけど大きな事やるでぇ、先物買いやぞ、入り!」

「台湾の未登の壁か、よっしゃ、行ったろ」

見事な一本釣りであった。

あれから長い年月をクラブ雲峰と共に歩んできた。我ながらよく続いたものだと感心する。

クラブ雲峰50年の間には厳しい時代もありました。それに耐え、乗り越えて来られましたのも偏にクラブ雲峰の伝統を守ろうとされた会員諸兄のご尽力とご協力の賜物です。

私や直英君が赴任先から神戸に戻り復帰した。そして高ちゃん、トっちゃん、マアちゃん、市川君と昔の仲間も戻ってきた。彼達を中心としてクラブ雲峰は新たなる道を歩み出した。本当に涙が出るくらい嬉しかった。また、あの個性豊かな仲間達と山へ行けるんだ。

また、新たにクラブ雲峰に参画してくれた諸君には心より感謝しています。君達は立派に我々の期待に応えてくれています。 クラブ雲峰の未来は君達の手に委ねます。頑張れとは言いません、楽しんで下さい、夢を追い続けて下さい。

過去の思い出に浸るのではなく、今を見つめ、先を見つめて進んで下さい。

私は自らに問うています。

お前に何が出来るのか、気力はあるのか、意欲はあるのか、そして何を目指すのかと。

 

     共に同じ道を歩んでくれた仲間達に感謝の気持ちを込めて、

       「本当にありがとうございました」

同世代の仲間達と青春の全てを賭けたクラブ雲峰、高ちゃんを中心とした第二世代の我々には一時代を築いたのだと云う強い自負がある。営々と守り育て上げたクラブ雲峰だとも思っている。

今こうして次世代へのバトンタッチを終えOBとなって在籍し続けても運営方針につい口を出したくなる、私達の自負がそうさせてしまうのだ。過去を語ったとて後輩達には老人の単なる昔話だと思われるだろう。「運営に口を出す困った年寄り」にはなりたくない。

同期が集まって相談した結果は、

「思い残す事は何も無い、卒業しよう!」 

「潔く我々老兵は姿を消して行こう」

だった。

世代交代を念頭に着々と推し進めてきた最終段階での結論でした。

 

4年前こんな事を書いていました。

      2015年5月31日(日)神戸登山研修所

        09:00~17:00まで。

クラブ雲峰50年の歴史で初めてとなる新入会員及び入会を考えている方を対象としたオリエンテーションを開催しました。

「俺達や後輩もこんな丁寧なオリエンテーションなんか受けた記憶が無いもんね」

Dscn4720
これからのクラブ雲峰を支える運営委員を含め24名が集まってきました。ナオヒデ代表、副代表の私、技術委員長のトっちゃんからクラブ雲峰の主旨、活動内容、将来に向けてのビジョンと、こと細かな説明が行われました。

出席者全員の自己紹介と登山に関する考えが述べられました。山岳会とは堅苦しく敷居の高い特殊な組織であると思われている人が多いとも感じたし、山に対して語られる言葉には熱い思いが込められており、入会される方々に対する大きな責任を実感したのです。

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今日は雨の予報が出ていて心配したのですが、予報と相反し良い天気で拍子抜けです。午前にミーティングを行い、午後に実技を行なうとしていたのですが、予定を変更して涼しい午前に実技を先行させる事にしました。ピラミッドウォールを使ってのビレイ練習、これは実際に10m程上でリードクライマーが墜落して、それをビレヤーがシッカリと止めるのです。一つ間違えたら大怪我ものですから神経を張り詰めた緊張感漂う実技です。墜ち役名人のナオキ君とナベちゃんが頑張ってくれました。

「俺が墜ちたらビレイヤーの体が宙に浮くでぇ!」

Dscn4719
ここに写ってる全員がクラブ雲峰オリエンテーションに集まったメンバーです。市っちゃんが言ってます。

「この人数を見てビックリしましたわ!雲峰は消えて無くなるんかと一時は心配しましたもんね」

我々の運営方針や将来を見据えた活動が理解してもらえず雲峰を去って行ったメンバーもいます。私達はこう考えます、どんな企業であってもクラブ雲峰のような小さな山岳会組織であっても重要な事は人材の育成であり目標を定めた長期計画です。特に人材育成には全力を傾注し時間と労力を惜しまず掛けるのです。そうして次世代を担う後輩を育て、雲峰の魂を伝え、そして50年の伝統を受け継ぎ新たな歴史を重ねて行ってもらおうと思っているのです。

後輩達へ一言、私達も間もなくOBとなります。これからは若いメンバーにクラブ雲峰を委ねます。そしてこれから我々は君達を見守って行きたいと思っています。俺達が居なくなっても共に登り、共に語り、共に過ごした事を忘れずクラブ雲峰をより良い方向へと導いて下さいね。今日は楽しく嬉しい一日でした、有難う御座いました。

50年や見守りやと書いていてフッと思い出したんです。今年がお袋の50回忌だと、そしてファイルを繰ってみたらナオヒデ君が理事を務める癌と闘う患者さんやご遺族をサポートする「日本がん楽会」の機関誌に依頼され寄稿した時の原文が出てきたんです。

                     お母ちゃんありがとう

                             黒 田 信 男

日本がん楽会第二回美術展のご案内を佐藤直英さんから頂きました。私は恥ずかしながら、このサークルの存在やその趣旨すら知らず、ましてや佐藤さんが会員である事も初めて知ったのでした。

彼は私が所属する山岳会の先輩です。昨年の8月に最愛の奥さんをガンで亡くされています。その長きにわたる献身的な自宅での看護介護の日々を我々仲間は、ただ、そっと見守る事しか出来なかった。 

彼の姿を見ていて「私のお母ちゃん」を思い出したのです。お母ちゃんは45歳の若さで胃ガンのためこの世を去りました。私は10代後半で山狂いの真っ只中、お母ちゃんには心配の掛け通しでした。当時は今と違い、医療技術も治療方法も十分とは云えない時代でした。胃の不調を訴え検査を受けた結果は余命一年という厳しい宣告だったのです。急ぎ、胃の全摘出手術が行なわれましたが、その手術途中で私はナースに呼ばれました。

「君の血液型は?検査するね」

「はい、A型です」

A型輸血液が不足したようで、緊急措置として身内から採血することになったのです。同じ血液型の姉も居たのですが、屈強な私一人から大量に採ると決まりました。丸椅子に座り両腕を机の上へ置き、その姿勢のまま恐ろしく太い注射器で抜くのです。右腕から出なくなれば左腕へ、また右腕へと何度も繰り返し針を刺しました。どれだけの量を採血したか覚えていません。やがて頭から血の気が引いて床に崩れ落ちました。覚えているのは病院からの帰り道に叔母が分厚いステーキをご馳走してくれたことです。

お母ちゃんは網元漁師の娘で肝っ玉母ちゃんでしたが、親父は大酒飲みで借金だらけ、よく夫婦喧嘩をしていました。そんな駄目親父だったのにお母ちゃんが逝くまで、何と、まるで人が変わったように面倒を見続けたのです。弱音は一切吐かず泣き言も言わず、自らの運命を気丈に受け入れてガンと闘ったあの強いお母ちゃんも親父にだけは甘えていました。

「お父ちゃん、メロンが食べたい」

「はい、はい」

あの一年間は子供達も立ち入れない、短くも凝縮された夫婦だけの暖かく静かな時間が流れていたのだなと思われるのです。

これが女房を泣かした親父、泣かされたお母ちゃん、夫婦とは不可思議なる関係です。

遊び人の親父を憎んでいた私だったのですが、その時から親父を見る目が変わりました。

この歳になって考えてみれば私も親父と同じような道を歩いてきてると思っています。血は争えんものですね。

お母ちゃんが逝って長い年月が経ちました。しかし今もお母ちゃんは私たちをしっかりと見守ってくれています。

あれはお母ちゃんの一周忌が近づいた頃だった、厳冬期の岩壁を先輩と登攀していた時です、天候が悪化して雪が激しく舞っていました。先輩も私も引き返す気持ちは毛頭なく、ひたすら登り続けました。途中でビバークした夜の事です。狭い岩棚で先輩は悪夢にうなされ、私もウトウトと夢を見ました。病の床に伏しているお母ちゃんの足を思いっきり踏ん付けたのです。

「痛いな! あんた、エエ加減にしーよ!」

一喝されて目が覚めました。悪天候もありましたがお互いの夢見が悪いとの理由を付けて撤退を決めましたが、あの時、そのまま前進していたら悲惨な結果が待っていたと分ったのは帰神してからのことでした。

或る日の事、自立して一人暮らしをしている長男が突然の帰宅です。戻るや、何も言わず、真っ先に仏壇に向かい、線香をあげて神妙な顔で手を合わせたそうです。何があったのかと不思議に思って女房が聞いたところ、長男曰く、東名高速道路をスポーツカーで飛ばしていた時、フッと睡魔に襲われ意識が遠退いた、すると、

「あんた!目を覚ましなさい!あんたが死んだら、私の息子が悲しむがな!」

白髪混じりのおばさんに起こされて、ハッと気が付けば中央分離帯が目前に迫っていたそうです。

お母ちゃんは私や孫までも見守ってくれています。

「お母ちゃん、ありがとう!」

2007年、パキスタン北部バルチスタンへ1ヶ月以上に亘り遠征する機会に恵まれました。山男でもあった親父の分骨とお母ちゃんの写真を持って登りました。そして標高5000Mを超えたあたり、カラコルムの8000M級の峰々を望む氷河丘(モレーン)にケルンを積みました。墓標には「父母、我と共に旅し、ここに眠る」と石板に記しました。パキスタン人の友人のムハマード・フィダが唱えてくれるコーランが山々に響き、辺りは荘厳な雰囲気に包まれていきました。両親は仲良く絶景の広がる世界で眠りに付いています。こんな寒い空気の希薄な所はありがた迷惑だと怒っているかも知れませんね。

私たち山に挑み続けたクライマーは壮絶な人の生死を何度も目にしてきました。人間の力なんて大自然の前では脆弱な存在でしかないと痛感させられるのです。

その最たる弱い私は周りに支えられて生きてきました、大好きだったお母ちゃんの魂にも守られて生かしてもらったようにも思えます、私もお母ちゃんの様に子供や孫達を見守る時がやがて来るだろう。

日本がん楽会の皆さんにお会いして勇気とパワーを頂き、生きるとは、人を愛するとはを考える良い機会になりました。あれこれ思いながら何十年と連れ添った老妻の姿をしげしげと眺めていましたら、怪訝そうな目で睨まれました。

お母ちゃん最後の言葉「信男、早よ、お風呂に入りよ」

風呂嫌いの私に今は女房が言っています。

Img

さらば我が青春のクラブ雲峰よ、永遠なれ!

「本当に長い間ありがとうございました」

 

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