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2017年12月21日 (木)

帝釈山鉱山跡から藍那古道へ

サークルHMAの12月例会は帝釈鉱山跡から丹生山を経由して藍那古道を歩く予定になっています。

あの谷に滝が有った事を思い出しました。

 「トっちゃん、梵天滝を登りに行かへんか?この時期はきっと水は涸れてるから登れるわ」

 車を志染川の橋に駐車し丹生山表参道から鉱山道を辿りました。

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一段目の滝は乾いたラインを拾いながら登ります。二段目の滝はかなりの水量が流れ落ちていました。

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「水は涸れてないぞ!季節外れのシャワークライミングは堪忍してくれ!」

二段目は左岸側から越えました。  

三段目は落ち口に向って右側の乾いたラインをカムをセットして登ります。

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帝釈鉱山の古い坑口は今も残っておりましたね。

下山して帰りに来週のサークルHMAの例会に備えて藍那古道の下調べに集落の奥へ車を乗り入れました。

「黒ちゃん、アカン、道がメッチャ狭いでぇ~」

「行けるわい!義経と一緒や!馬も四足、車は四輪じゃ~!」

アホですね、動けなくなり、脱輪しそうな道?を延々とバックする破目に陥りました。

「そこは車で行ける道と違うワイ!」

地元の方に笑われてしまいました。

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サークルHMA12月例会は私とトっちゃんを含め13名が集まりました。コンパスと地図を駆使して道なき谷を登って行きます。

「トっちゃん、毎回のサポート参加で助かってます。ありがとう」

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丹生神社では麓の山田町の氏子の方々が正月初詣に備えた草刈り清掃に励んでいました。色々とお話しをしたのですが丹生神社の維持管理は大変との事でしたね。高齢化や過疎化の問題も深刻だそうです。毎年5月に行われる子供奉納相撲も少子化で開催も厳しいようです。

 「村から山田小学校に通う子供は8人や、女の子が多くてなぁ~、女相撲になるわ!」 

丹生山からの初日ノ出は素晴らしいそうです、正月3ヶ日はゲートのチェーンも解放されて車で山上まで上がれます。ぜひ初詣に来て下さいと誘われました。

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丹生山を下ってきました。ここから本日の後半戦が始まります。 義経道と呼ばれる藍那古道を辿り、今日のゴールとした神鉄藍那駅を目指すのです。

丹生山には清盛が再建寄進した明要寺跡があります。清盛はここを福原京の守護寺として崇め、月参りした記録があります。平城京では東大寺、平安京では比叡山延暦寺が鬼門になりますが、丹生山は福原京からは方角が鬼門ではないでしょ?私が思うに清盛は丹生山を鞍馬山とイメージしていたんじゃないかと思いますね。

丹生神社で整備作業している古老?(私と大差なし)に何処まで行くのか聞かれたので義経道を辿って藍那へ抜けますと言いました。

古老に、

 「本当に義経はこの丹生山を越えたのでしょうかね?」

アッサリと

 「越えとるかいや!」

やはりそうでしょうね。当時は丹生山には清盛の息が掛かった明要寺が有り三草山での戦の情報も得ていたでしょう、それでも義経一行を黙って通すでしょうか?寺には恐らくは僧兵も居るだろうし、それなりの兵力を保持していたはずです。この急峻な山をそれも少数部隊が一大決戦を前にして兵力を温存すべき時なのにリスクを冒してまで、ここを越えるでしょうか、見つかれば戦闘にもなるし、平氏へ情報は伝わるかも知れないしね。

藍那古道には義経一行を案内した鷲尾三郎一族の墓所も有りましたよ。

私のは考えでは義経一行は丹生山北麓の淡河から丹生山系を西端の三津田辺りで越え、藍那古道の方向へ密かにすり抜けて行ったと思うのです。長坂山から小部峠は清盛の月参りルートですから間道であった藍那古道を通ったのは間違いないと思いますが、どうでしょう?

藍那からは白川付近を通り、現しあわせの村から鵯墓園の高尾山を抜けて南下したとされています。

私が思うに義経は現在の鵯越付近から会下山方面に向ったと考えます。当時の兵庫区の湊川周辺は池が広がり「一の谷」と呼ばれていたそうです。

平氏が福原京に布陣したとすれば、東門を生田の森、西門を須磨一の谷として守りを固めていたと云うのは納得出来ます。この状況なら戦略的にみて鵯越から現在の会下山辺りを駆け下れば本陣の裏手を突けます。

須磨浦一の谷の急斜面での「一の谷落とし」か湊川一の谷の緩い坂を下った「一の谷落とし」かどちらでしょうね。

一方、不意打ちを食らった平氏側の背後には清盛が宋との交易港として整備した兵庫の津(大輪田の泊)があり軍船や御座船も接岸停泊していた事でしょう。

退却する時、混乱の中、多くの殿上人や十二単の女官や重い鎧を着た武者や軍馬が船に乗り込むとしても須磨一の谷とすると波打ち際や海に浸かりながらでは短時間での乗船は困難だと思います。

須磨一の谷説と兵庫湊川一の谷説と意見が分かれていますが私は湊川一の谷説を支持しますね。

こんな事を考えながら歩いた義経道歴史探訪でしたが楽しかったです。ロマンですね。

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